今年(2019年)の4月から5月にかけて,明仁天皇(現在の称号は上皇ですが,便宜上このように表記します)の退位と徳仁天皇の即位についての一連の儀式が行われ,天皇の代替わりと改元がなされました。裕仁天皇(昭和天皇)の崩御に伴う代替わりの際の「自粛」ムードに比較すれば,今回の代替わりは生前退位(譲位)によるものであったことから,祝賀ムード一色であったように思われます。
ただ,明仁天皇がはじめて公式に生前退位の意向を表明した2016(平成28)年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」から生前退位の実現までの過程には,日本国憲法の原則から見ると,若干の違和感が残るといわざるを得ません。
生前退位までの経過を見てみましょう。
明仁天皇は,上の「おことば」を,国民に対する直接のメッセージとしてテレビを通じて公表しました。この「おことば」は,今後高齢により職務を果たせなくなることへの懸念を表明し,葬儀の儀式と新天皇の即位等の儀式が同時並行になることを「避けることはできないものだろうかとの思いが,胸に去来することがあります」とし,「国民の理解を得られることを,切に願っています」と,強い決意をにじませたものでした。これをマスコミ各社が「生前退位のご意向」などと報道し,内閣官房に「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」が設置され,2017(平成29)年に国会で「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が制定され,「今回限りの特例」として,生前退位が実現に至りました。
このように,今回の生前退位は,明仁天皇の強い意思が働いて実現したものでした。実は,皇室典範(皇位の継承や皇族について定めた法律)には,天皇がその職務を十分に果たせない場合には,摂政が天皇の職務を代行できることとされており,天皇の高齢や病気などの場合に摂政を置くことも考えられました。しかし,明仁天皇は上記「おことば」の中で,「この場合も…生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」と述べており,このことからも,明仁天皇が生前退位(譲位)の決意を強く持っていたことがうかがえます。
他方,日本国憲法は,第1条で「(天皇の)地位は,主権の存する国民の総意に基づく」第4条で「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行い,国政に関する権能を有しない」としています。これは,天皇が「統治権」の「総攬者」であった明治憲法とは全く異なり,日本国憲法の下では,国政のあり方を決めるのはあくまで国民であること,天皇は儀礼的行為である国事行為のみを行い,政治への関与は禁じられていることを意味しています。
上記の「おことば」では,かなり抑制的な表現ではあったとは言え,暗に,皇室典範(法律)を改正するなどして,生前退位(譲位)を可能にすることについて「国民の理解」を得たいという意図をにじませたものでした。しかも,これは公共のテレビ放送を通じて,明仁天皇が直接国民に語りかけるという形で行われました。天皇がこうした「おことば」を発し,そのことを契機にして国会が法律を制定するという一連の経過は,憲法の趣旨から逸脱しているのではないかという疑問が生じるのは,ある意味自然なことと言えます(もちろん,この疑問は,天皇の生前退位(譲位)の是非や天皇の役割への評価などとは別の問題です)。
天皇や皇室については,女系天皇の可否を含め,そのあり方に関する議論が続いていますが,憲法の国民主権原則を貫き,国民主権の下での天皇の役割は何か,天皇や皇室はどうあるべきかなどが改めて議論される必要があるのではないでしょうか。