2020(令和2)年1月の閣議決定に端を発した検察庁法改正問題は,SNSでの「#検察庁法改正案に反対します」という抗議の広がりや,当の本人である黒川氏の賭け麻雀問題の発覚と辞任を経て,内閣が検察庁法改正法案の国会成立を事実上断念するところまで発展しました。経緯を踏まえて読み解いてみましょう。
発端は,特定検察官の勤務延長の閣議決定
2020年1月31日,内閣は,2月7日に定年退官予定であった黒川弘務東京高等検察庁検事長について,8月7日まで勤務を延長することを閣議決定しました。これが一連の騒動の発端でした。
検察官は国家公務員ですが,刑事事件についての起訴という強力な権限を独占し,場合によっては政治家すら起訴できるという特殊な職務を有することから,その身分や定年などについては,国家公務員法ではなく,検察庁法という特別の法律により定められています。検察庁法は,検察官は63歳(検事総長のみ65歳)の定年に達した場合には退官すると定めており,定年後の勤務延長については何も規定していません。黒川氏の定年延長を決めた閣議決定の根拠は,「任命権者の判断による勤務延長の規定がある国家公務員法を適用した」と説明されました。検察官も国家公務員である以上,国家公務員法の規定を適用してもいいだろうと思われるかもしれません。
しかし,検察庁法の定年規定は,検察官の特殊な権限と職務から,検察官が定年を超えて職務にあたることを禁じる趣旨と解釈されてきました。実際にも,これまで定年後に勤務延長がなされた検察官は一人もいませんでした。政府も,1981(昭和56)年に,国会で「検察官には国家公務員法の定年延長は適用されない」と答弁しており,その後,一貫して,これが公式な政府解釈とされてきました。
こうした点を国会で追及され,政府は,「1月の閣議で,検察庁法や国家公務員法の解釈を変更した」と答弁しましたが,この閣議決定を記録した決裁文書がそもそも存在せず,口頭で解釈変更を決裁したという不可解な説明に終始しました。
なぜ強引な解釈変更までして,特定の検察官の勤務延長を強行したのか
このような勤務延長の閣議決定ですが,その背景には,次期検事総長人事問題があったといわれています。安倍政権に近いとされ,次期検事総長に据えようと考えていた黒川氏が,現検事総長の退官前に定年退官してしまうと,黒川氏を検事総長に任命できなくなってしまうので,黒川氏の勤務延長をして,現検事総長の退官を待とうとした…というのです。真相は不明ですが,安部首相自身,森友学園・加計学園をめぐる「モリ・カケ疑惑」や「桜を見る会」疑惑などで検察庁に告発されるなどしており,このような意図があったのではないかという疑いが生じるのも無理からぬところです。
上に述べたように,検察庁法は,検察官の権限と職務の特殊性から,定年を超えて勤務することを禁じていると解されていたにもかかわらず,これを無視した「解釈変更」によって,特定の一人の検察官についての勤務延長を行った今回の閣議決定は,検察官の政治からの独立と公平な権限行使への信頼を害するものと批判が集中しました。
突然の「検察庁法改正案」
このような批判を意識したのか,内閣は,3月13日,全ての検察官の定年を段階的に引き上げた上で,内閣または法務大臣が認めるときは定年を超えて勤務させることができるとする検察庁法改正案を,国家公務員の定年年齢の段階的引き上げを内容とする国家公務員法改正案との一括法案(束ね法案)として提出しました。
もともと,国家公務員の定年延長については年金の受給年齢との関係で法案準備が続けられ,国会に提出されたという経緯がありますが,急遽,これに検察庁法改正案が準備されセットにされたわけです。
しかし,この検察庁法改正案では,内閣や法務大臣といった政治部門の判断だけで,定年延長を認めるかどうかが決められることとなってしまい,検察官の政治的独立や公平を害し,政権が常に検察官の人事に介入することができるようになってしまいます。検察官の人事がその時々の政権の意向によって左右されると,本来,政治部門の意向とは独立かつ公平に行われるべき検察官の職務が,政治部門への「忖度(そんたく)」や遠慮によってゆがめられてしまうことになりかねません。
与野党通じて特に反対のない国家公務員の定年年齢引き上げとセットで審議すれば押し通せる,検察庁法そのものを改正してしまえば,黒川氏の勤務延長に対する批判もかわせるだろうという狙いがあったのかもしれません。
SNSでの反対意見の広がり
しかし,これに対して,反対の声が大きく上がりました。検察庁法改正に対しては,日本弁護士連合会や各地域の弁護士会,法律家団体などが反対意見を発表していましたが,法案の審議入りが伝えられた5月上旬以降,「#検察庁法改正案に反対します」とのツイートがあっという間に数百万件を超えるなど,SNSで爆発的に拡大しました。その中には,普段はあまり政治的発言をしない芸能人や文化人も多数含まれていたことが報道され,話題となりました。さらに,元検事総長を含む検察官OBらも反対の意見書を提出するという異例の事態にまで発展しました。新型コロナウイルス感染症によって外出自粛要請がなされ,市民集会や街頭での抗議活動などが制限されている中で,このような反対意見の広がりは特筆すべきものだったと言えます。
黒川検事長の賭け麻雀の発覚と辞任,そして法案成立断念へ
このように反対意見が大きく広がる中,当の黒川氏が,緊急事態宣言のさなかに,新聞記者や新聞社社員と賭け麻雀をしていたという不祥事が週刊誌で報道され,黒川氏は事実を認め,5月22日に辞職しました。これで腰砕けとなった内閣は,6月半ばの国会会期末が迫る中,結局,検察庁法改正案の今国会での成立を事実上断念せざるを得ませんでした。
黒川氏処分にも「首相官邸の陰」
黒川氏の賭け麻雀という不祥事については,森法務大臣が「訓告」処分を行ったと言うことですが,「訓告」は,国家公務員に対する懲戒処分とは別個の,より軽い処分に過ぎません。金銭を賭けて麻雀をすることは,刑法上の賭博罪に該当します。人事院の基準では,公務員が賭博をした場合,懲戒処分として減給や戒告処分とするとされていることから見ても,黒川氏への処分はどう見ても軽すぎます。処分の判断を誰がしたのかについての安部首相や森法相の発言も食い違っており,処分の経緯や理由は不透明なままです。「法務省は懲戒処分相当と判断していたが,首相官邸が懲戒処分にはしないと判断した」と報道されていますが,一連の経過から見れば,そのように疑われても仕方がないでしょう。
こうした一連の過程を見てくると,首相(官邸)が,一貫して検察官の人事に介入したいという意図を持っていることを強く感じざるを得ないところです。
問題はまだ終わっていない
SNSなどを通じた反対世論の広がりは,「刑事裁判(刑事司法)に政治が介入することは許されない」という良識が国民の中に根付いているということの証でもあり,刑事裁判に関わる私たち弁護士にとっても,力強い励ましでした。
他方,この文章を書いている2020年6月上旬の段階では,まだ国会の会期中であり,検察庁改正法案が継続審議となるか廃案になるかは決まっていません。また,仮にいったん廃案となったとしても,改めて同様の法案が提出される可能性もあります。刑事裁判への政治の介入を許さないため,監視を続けていきたいと思います。