令和4年5月19日、本県塙町で起きた強盗殺人事件の犯人とされる少年の実名や顔写真が報道されました。
彼は事件当時19歳であり、これまでは少年法の保護のもとで本人を特定する情報(氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等)については報道が制限されていました(少年法61条)。ところが、令和3年5月21日の少年法改正により、この制限については18歳及び19歳の「特定少年」については一部対象外とされました(同法68条)。つまり、18歳及び19歳の「特定少年」が事件を起こし、起訴される事態となると、場合によっては実名や顔写真などが報道されることになるのです。どのような事件を報道するかどうかの判断は、検察や報道機関に委ねられており、検察庁は「犯罪が重大で、地域社会に与える影響も深刻な事案」に限って実名等を公表することとしています。
ひとたび実名や顔写真が公表されてしまえば、現代の情報化社会においては、飛躍的に情報が拡散し、もとに戻すことは困難となります。起訴されたということは有罪が確定したわけではなく、無罪推定が働く場面です。仮に無罪の特定少年が実名報道されてしまったとすれば取り返しのつかないことになります。特定少年が実際に犯人であったとしても、特定少年は高校3年生や大学生に該当する年齢であり、まだまだ人格形成が十分ではなく、立ち直る可能性は十分に秘めています。そのような少年の立ち直りの機会を半永久的に奪う危険性がある実名報道を「犯罪が重大で、地域社会に与える影響も深刻な事案」という曖昧な基準によって許して良いのでしょうか。改正された少年法においても、同法は1条で「この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする」と謳っており、少年の刑事事件については特別の配慮を要することを明記しているのです。
これに対し、実名報道を許容すべきとする立場からは「知る権利」を根拠とする反論が考えられるところです。しかし、憲法で保障されている「知る権利」とは、本来は国家からの自由として観念されたものであり、個人が様々な事実や意見を知ることによって、はじめて政治に有効に参加することができることから保障されているものです。特定少年の実名を知ることで、「はじめて政治に有効に参加することができる」ことになるのでしょうか。「知る権利」とは自分が知りたいと思う情報をすべて知ることができる権利ではありません。
また、凶悪事件を起こした犯人の情報を知ることで、自分自身や家族を守ることができるのであるから必要である、との反論もあるところです。しかし、犯人の氏名や住所などがわかったところで、犯人が転居してしまえば前住所などの情報は意味をなしません。むしろ、犯人の少年が再び犯罪を起こさずに社会に戻れるように、立ち直りの場を与えることこそが、地域を守るために有用であるとも考えられるのです。
このほかにも少年の実名報道がされることによって、その少年の家族が特定され、いわれのない攻撃を受けることになることが懸念されます。少年の家族は犯罪とは基本的に無関係であるにもかかわらず、地域から排斥され、引っ越しを余儀なくされるなどの不利益を被ることもあります。
実名報道により得られる利益と、それによって失われる利益(少年の立ち直りの機会の喪失、少年の家族の不利益など)を比べたとき、果たしてどちらが重いのでしょうか。被害者は果たして実名報道を望んでいるのでしょうか。今回の実名報道については、本年5月13日に福島県弁護士会も反対の声明を出しているところです。いまいちど、本当に実名報道が必要なのか、考えてみませんか。