第1 調査日等
1 調査日
2011(平成23)年4月18日(月)
2 調査地
福島県相馬市,南相馬市
3 調査日程
同日午前,相馬市及び南相馬市の津波被災地を自動車で回り,視察。
昼食をとりながら,南相馬市議らと懇談。
午後,南相馬市内で,農業者,商工業者,地元住民と懇談及び意見交換。
第2 調査概要報告
1 相馬市津波被災地
相馬市中心部から車を走らせ,松川浦方面に向かう。途中から,道路がほこりっぽくなり,道の脇に瓦礫や土砂が積まれているのが目につくようになる。そのあたりまで津波が押し寄せたことが分かる。松川浦に近づいていくと,道路脇に船舶が座礁している。津波で陸に運ばれ,道路脇のガードレールにぶつかって止まったものと思われる。浜に近づくにつれ,瓦礫の量が増え,また建物の損傷が目立ち始める。海産物直販所や漁業関連施設も倒壊したり,津波で中ががらんどうになっているものが多い。道路脇にいくつも船舶が座礁したままになっている。松川浦大橋周辺は,ほとんど見渡す限りの瓦礫の山。瓦礫の中を走っていくと,自衛隊員と思われる迷彩服姿の男性が交通整理をしている。所々,重機やダンプで倒壊した建物や瓦礫の処理をしているのが目につく。
松川浦大橋方面から高台に上がっていくと,まったくいつもと変わらず,建物や車がある。ほんのわずかな差で,天国と地獄が分かれたことが分かる。
6号バイパスを南下し,道の駅そうまに向かう。途中,道路左(海側)と道路右(山側)とで,光景が全く違う。海側の耕作地は,一面ヘドロで覆われ,所々に瓦礫や壊れた車などがあるが,山側の田畑は全く無傷。その落差の大きさにショックを受ける。
2 南相馬市津波被災地
「道の駅そうま」で,南相馬市議と合流。自動車で南相馬の津波被災地の視察に向かう。
南相馬鹿島区(旧鹿島町)の海沿いの道を走る。相馬火力発電所の近くも,津波で瓦礫の山。途中,送電用の鉄塔も倒壊し,原形をとどめないほど変形しているのを何カ所も見かける。
原町区(旧原町市)に入る。上渋佐の老人保健施設・ヨッシーランドを視察。この施設は,海から約2キロ離れた台地にあるが,ここまで津波が押し寄せた。震災時,入所者や従業員が約200名おり,建物の倒壊で十数名が生き埋めになった。また,津波の避難が間に合わず,入所者だけで30人以上が死亡・行方不明になっている。かろうじて建物の外観だけは残っている。この施設から海まで,一面ヘドロと瓦礫に覆われている。
上渋佐から萓浜地区へ。ここも,海から約2kmくらい離れているが,やはり一面瓦礫の山。立派な木造の家は,2階部分は残っているが,1階部分は,柱だけ残っているような状態。道路脇に掲示板が立てられており,地区住民の安否情報などが貼られている。議員の話では,昨日,地区の合同慰霊祭が行われたとのこと。瓦礫の山の中に,五月人形のものと思われる兜が置かれている。遺品だろうか。
議員の自宅に向かう。議員宅は,海岸から約4kmのところにあるが,4軒先の家まで津波で被災し,危うく津波被災を免れた。昼食をとりながら,議員らと懇談。以下,聴取した事項。
南相馬市は,原発事故の関係で,第1原発から20km圏内(小高区など),20kmから30km圏内(原町区など),30km圏外(鹿島区など)に分かれており,それぞれ状況が異なるが,市が分断されたことにより,行政の対応の違いや住民の温度差が生じるなど,市民生活に困難が生じている。計画的避難区域や緊急時避難準備区域といった新しい区域も,どこがその区域に該当するか,まだ詳しい発表がなく,不安が広がっている。市の人口は,一時期は市外への避難(自主避難含む)により,いったんは1万人程度まで減ったが,その後,原発が今のところ落ち着いていることもあり,小高区(20km圏内で立入制限)を除いたところで家の残っている住民がかなり戻っており,2万人以上。もしかすると3万人くらいになるかも知れない。今のところ,市内全域で宅配便や郵便の集配がされておらず,相馬まで取りに行く必要がある。また,市内ではコンビニなどは営業しているが,大型スーパーなどは営業していない。それでも,3月に比べれば,物資やガソリンはかなりよくなった。しかし,相馬市や鹿島区まで,車で移動できればの話。車のない人や,お年寄りはコンビニで買い物している。お店などが営業しておらず,生活物資が不足していたため,南相馬市では,公民館などで食料や水などの物資を配給していたが,現在では,水や紙おむつくらいしか配っていない。それも,いまある支援物資がつきたら終わりと言われている。市では,「20km圏内で避難している人,家が全半壊して避難している人には配給するが,罹災の認定を受けていることが前提。それ以外の人は,自分で購入するなどしてほしい」と説明している。市の教育委員会では,鹿島区の小学校・中学校(30km圏外)での授業を4月22日から再開する予定と発表しており,市内に残っている児童生徒は,おそらくそこに通うことになるだろう(ただし,20km?30km圏内では,子どもを避難させている世帯が多いとのこと)。市内に残っている市民は,いつになったら見通しがつくのか,みんな歯がゆい思いをしながら毎日生活している。
3 農家の皆さんとの懇談
地区(20kmから30km圏内)の集会場で,付近の農家の皆さんと懇談。
(米作農家)
・ライスセンターを会社組織で運営している。会社の事務所は20km圏内だが,田畑は20kmから30km圏内にある。社員が3人おり,社員への手当など固定経費がかかるので,このままでは会社が持たない。田植えがいつできるかも分からない。仮払いがどうしても必要。
・米作について,10aあたりの保証金がどのくらい出るか分からない。今の米価では,微々たる補償にしかならないのではないかと不安。30km圏内は作付け制限になったが,補償対象になるのか不安がある。線引きがどこでされるのか。20kmなどで機械的に線引きされたのでは困る。
・津波で田畑が冠水した地域については,個別賠償の対象にはならないと聞いている。
(野菜農家)
・出荷制限が出されている。賠償を求めるための実績資料として,どのようなものが必要になるのか,分からない。
(酪農家)
・乳牛の場合,年齢などによって搾乳量が違うため,どの程度の期間出荷停止になるかの見通しがないと,賠償を求める金額もよく分からない。いったん搾乳をやめると,乳量が元に戻るまで3年くらいかかる。その間,牛に食べさせるえさ代もかかる。こうした固定経費も含めて賠償を求めたい。
(意見交換)
・作っている作物などにより,かなり状況が異なるため,作物ごとに地区の農家をまとめて,賠償についての要望をしてはどうか。ただ,JAも役員が避難している部落もあり,今後,賠償についての要望をとりまとめることができるか不安。
(地区の区長をされている方)
・これまで,区長として役所に避難等についての情報提供を求めてきたが,市では情報提供してこなかった。昨日,役所で説明会があるというので行ってきたが,言われたのは「復興のための道具を貸します」「20km圏内から避難している市民には支援物資を配ります」ということだった。結局,市でも20km圏内とそれ以外で線引きを図り,20km圏内は避難,それ以外は避難させずに「復興」を考えているような印象を受けた。今後,義援金や賠償の仮払いでも,20km内外で色分けをされていくのではないかという不安がある。
(その他の意見交換)
・市内では,若い人の仕事がないのが一番問題。震災と原発事故で働く場所がなくなり,収入がない。こうした状況が続けば,若い人は市外に出てしまい,誰が残るのか。
・市内が3つに色分けされていることで,様々な場面で矛盾が出ている。
・市は支援物資の配給をやめたことについて,「スーパーやコンビニが開いている。戻ってくる人が多く,物資が尽きてきている」と説明しているが,市では人口を全く把握していない。
4 中小商工業者(青年部?)との懇談
原町商工会議所の会議室で,商工業者等と懇談。
(塗装業)
・屋内退避区域に現場がある。屋内退避指示のため,外で作業ができない。市の保育園の工事で,工務店から塗装の下請けを受けていたが,年度末までに完成予定だったので,作業をさせてくれと言ったが,工務店が市に確認したところ,作業はするなといわれた。外で作業ができなければ,代金も入ってこない。材料代にも事欠く状態。
東電への賠償についても,商工業の場合,全く話が聞こえてこない。
(業種不明。建設業?)
・大きな企業は既に南相馬から仮撤退しているので,そこからの注文などが入ってこない。車や重機などのリース先からは,屋外に出していたリース物件については,解約解除しても引き取らないというようなことを匂わされている(放射性物質の付着を心配?)。津波で故障した車のスクラップについても,放射線量を測定し,一定以上の数値が出ているものは,鉄くずとしても引き取ってもらえないという話がある。取引先の企業が軒並み撤退しており,この先,仕事が続くか不安。
(JAそうま労組)
・今回の原発事故で,管内の小高,鹿島,原町,飯舘で業務ができない状況。相馬市,新地も,津波被害で農家が営農できず,JAの経営にも不安がある。大幅な賃金カットや解雇が予想される。
(印刷業)
・震災と原発事故で受注がなく,事業ができないので,従業員のために雇用調整助成金を受給できないかと思い,ハローワークに相談したところ,ハローワークでは,「原発から30km圏内は,雇用調整助成金の対象にならない」と言われた。労働局に問い合わせたが,同じ回答だった。厚労省に問い合わせしたら,「そんな通達は出していない」との回答で,その回答を示して,何とか受給できるようになった。弁護士会として,実態調査し,改善を図ってほしい。
(その他)
・住民は,いろんな悩みを抱えているが,行政にしろ,国にしろ,東電にしろ,相談窓口が少ない。相談できる場所が少ない。
・勤務先の業務再開の見込みが立たないので,失業手当の申請に行ったら,窓口で「会社が業務停止しているか分からないので受け付けられない」と言われ,帰ってきた人がいる。社長などが避難している会社も多いのに,どうやったら申請のための書類が手に入るのか。このことに限らず,行政が硬直化している。20km,30km,それ以外で行政の扱いも全く違うし,住んでいる人の温度差も大きい。仕事もなく,このままでは若い人は市外に出て行かざるを得ない。何とかしてほしい。
・一ヶ月も屋内退避が続いて,今さら屋内退避を解除すると言われても,どうすればいいのか分からない。雇用もなく,生活ができない。このままでは,人のいない死んだ地域をたくさん作ることになる。南相馬に住んでいる人は,放置されて生殺し状態になっている。
・原発から30km圏内は,一応働いていいとされているので特に公務員を中心として一部の人は働いている。しかし,働いている人がいるからといって,職にあぶれた人は関係ないといわれたのでは,南相馬市は再興できない。南相馬市は原発の風評問題で食品関係は撤退するのが間違いないと言われているし,製造業関係も風評を嫌って撤退するだろう。企業が撤退するという噂で街はあふれている。企業に撤退されたら,この町に住む末端の労働者はどうやって生活していったらいいのか?若い人は,それでも仕事にありつけるかもしれないが40代,50代の人間には仕事は回ってこない。でも,そういう人たちはローンを抱え,老人を抱えている。この町から出ていくこともできない。石巻などは少しずつ企業も戻って再興に向かっている。でも,この町は逆。私は今,家のローンを抱え,老人を抱え,この町から出ることもできず,しかし,夫婦ともに失業し,もうまもなく50才という年齢で再就職の目処も立っていない。未来が見えず,真っ暗で死んだ人の顔すら思い浮かばない日々である。東電の仮払金,補償金も大事だが,企業に撤退されて仕事がなくなったこの町の末端の労働者は,それでは何も救われない。生きていけない。一時のお金ではなく仕事がほしい。国は,企業にこの町から出ていかないように引き止めてほしい。国でやってくれるのでなければ,この町の未来はない。
5 住民との懇談
原町区(20kmから30km圏内)の住民宅で,付近住民と懇談。
・放射能や放射性物質についての情報提供を,もっと分かりやすくしてほしい。国も,行政も,東電も,ここで暮らしていけるのかどうか,きちんとした情報を提供していない。農作物についても,中途半端な発表だから,風評被害が生じる。
・原発事故で,勤務先の会社を解雇された。失業保険の手続に行ったが,人災によるものだから,10割給付を求めたい。東電へ損害賠償を求めようと思っても,業者や個人への賠償の枠組みすらよく分からない。
・避難区域,屋内退避区域,計画的避難区域,緊急時避難準備区域などと言われても,その線引きにどれだけの合理性があるか分からない。もっとモニタリングを細かくして,「ここでは,これだけの健康影響が予想されるから,避難」と説明されなければ,避難や避難準備の必要があるか分からない。
・原発事故のために,家族も分散して避難を余儀なくされ,地域も崩壊している。この地区には,50歳以上の人しかいない。子どもや妊婦は市外に避難している。こういう状態で,どんな希望が描けるというのか。家族や地域が一緒に暮らせる場所を確保してほしい。
・行政でもいろんな指示を出しているが,その指示がばらばらで,市民にとって判断材料がない。的確な指示を分かりやすくしてほしい。
・塗装業をしている。これまで,事業を何とか軌道に乗せようと,借金して設備投資してきたが,原発事故で仕事が入らなくなった。このままでは,事業を続けられず,借金だけが残る。どうにかしてほしい。従業員の人にも残ってもらいたかったが,家族のことを考えて,千葉に避難すると行っている。引きとめるわけにも行かない。事業の将来像が描けない。
・最近では,いったん市外に避難した人たちも,屋内退避区域に戻ってきて,市の人口が3万5000人くらいになっているらしい。失業している人も多い。どうやってみんなが収入を得て生活していけるか。
・労基署に行って,従業員のための雇用保険の制度などを教えてもらったが,自営業者向けの生活保障の制度はないと言われた。営業損害と言われても,最近数年間は赤字だった。賠償が得られるか,不安。
・東電からは,1世帯あたり100万円の仮払いがあると発表されたが,いつ,どのように支払われるのか,請求の手続はどこで受け付けてくれるのか,分からない。
・とにかく,どんな仕事であっても構わないので,仕事が欲しい。このままでは,復興の見通しが立つまで会社と生活が保たない。
・小高区(20km圏内)に住んでいた。3月12日の夜,とにかくすぐ避難してくれといわれた。市内の避難所から伊達市に移り,今は山形県に家族を避難させている。20km,30kmの線引きが市民を分裂させている。いま,市内に戻っている人も,勤務先から,戻って仕事をしてくれといわれ,先の見通しや不安を抱えたまま,収入を得るために戻っている人が多い。戻らなくていいなら戻らないという人は多いと思う。市内に仮設住宅を作っているらしいが,放射能の不安の中,誰が住めるのか。山形の二次避難所の説明会では,「2ヶ月しかいられない。その後は仮設住宅に移ってもらう」と言われた。全体のコーディネートができていないため,行政の各分野で,あるいは各地域でばらばらの対応になっていることを感じた。
相馬市では,南相馬市からの避難移住は,相馬市に住民票を移さない限り認めないと行っているらしい。いっそのこと,南相馬全体に避難指示を出してもらった方がいいと思っている。もう小高に帰るつもりはない。10年,20年,作物は作れないし,住めないと思う。最悪なのは,このまま様子見でずるずる行って,最終的に「住めません」と言われること。
・市議会の中では,避難に反対する意見も多い。特に,鹿島区選出の議員は,大丈夫だと言っている。
・会社で事務をしている。雇用調整助成金や厚生年金保険料の免除について,相談に行ったが,30km圏内は一律に該当しないと言われた。夫は大手電機メーカーの工場に勤めているが,私と子どもは仙台に避難している。家族ばらばらで生活するのはつらい。仙台でアパートを借りようとしたところ,福島から避難してきた人には貸せないといわれた。放射能の心配だけでなく,収入があるか,いつまで住んでくれるか不安だからという理由。夫が勤める工場で作った製品は,風評被害で売れないらしく,他県の工場へ移転する話も出ている。
・このままでは,30km県内には住めなくなると思う。
・市で支援物資を配給していたが,食料は4月5日で配給が打ち切られた。市では「3万人以上が戻っていて,みんなに配る分はない。屋内退避の人はお店で買ってほしい」と説明しているが,市の言い分だと,買いに行けない人や,お金のない人はどうすればいいのか。そもそも,屋内退避は外に出てはいけないはず。屋内退避の指示を出すなら,行政が生活物資を家まで届けて当たり前だと思う。
・地区でボランティア活動をしている。とにかく情報を得る手段が乏しい。テレビラジオしかない。昨日までは新聞配達もなかった。屋内退避になっている地区の人は,高齢者が多く,家の中に閉じこもって生活している。市長は,国や東電から情報がこないといっているが,市民への情報提供の努力もしていない。緊急時避難準備区域と言われても,住民はそれがどういうことか説明を受けていない。緊急時に避難すべく準備するといわれても,どこに,どうやって逃げるか説明がない。計画が立てられているか分からない。十分な説明もなく,分からないから不安が増大する。行政自体が混乱の極みにあると思う。例えば,東電への仮払いの申請書や申請のやり方は住民に知らされていない。新聞に書いてあったようだが,新聞も配達されていなかったので,住民はみんな知らない。今後,市に問い合わせが殺到して,対応しきれなくなるのではないか。
・震災の翌日から,原発での爆発事故が次々に報道され,みんな不安になった。家に閉じこもり,町に人の姿が消えた。隣の家も,いるかどうか分からない。警察のような車がどんどん集まってきて,不安になっていったん避難した。しかし,会社が心配で戻ってきた。
・小学生の孫は,福島市に避難して,福島市の小学校に通っているが,南相馬から避難してきた子どもは白い目で見られるらしく,気疲れをして,学校を休んでいる。できれば,南相馬に戻したいと思うが,孫の健康のことを考えると,戻すこともできない。
・3月13日から2日間くらい,南相馬市内では携帯が「圏外」表示で使えず,固定電話もつながらず,インターネットも全く使えなかった(ちなみに,携帯は会社によっては使えたらしい)。原発事故について,原発に近い地域からの情報発信への規制を国がかけたのではないか。調べてほしい。
・マスコミも南相馬にはろくろく来ていない。取材許可が下りないと言っていた。マスコミも取材に来てくれないと,取り残されているのではないかと不安が募る。
第3 私的な感想
1 津波被災地については,既に各種映像メディアで報道されているところであり,また,特に相馬市では,瓦礫や倒壊した建物の撤去も徐々に進みつつある。しかし,海から4km離れたところにまで津波が押し寄せ,津波で被災した地域は,一面何もないヘドロの海,瓦礫の山になっている。360度見回しても,ほとんど瓦礫しか見あたらない地域もある。その光景を見ると言葉が出ない。
2 南相馬では,農家や業者,住民などたくさんの人から話を聞いた。考えや要望は様々だが,共通するのは,原発事故によって,生活や地域復興の先行きが見えないことへの不安といらだち,正確で信用できる情報が得られないことに対する憤り,そして,それらから来る「自分たちは見捨てられたのではないか」という疑念であるように感じた。みんな,たまったものが吹き出すように,口々に自分のこと,家族のこと,行政や東電への不満,将来への不安などを語り出す。携帯や電話の不通も,住民の不安をあおった。そのことから,「国の情報規制」という,ある意味で「陰謀論」に近いものが本気で語られるような状況が生まれているように思われる。
3 原発事故の収束の見通しが得られないことや,国から正確で説得力のある情報発信がされていないために,住民は生活再建や地域の復興のイメージを描くことができていない。それに加え,原発からの距離によって,機械的に線引きをされ,全く違った取扱いをされていることが,住民の不公平感を増大させている。もともと南相馬市は,北から鹿島町,原町市,小高町の1市2町の合併により成立したが,小高区は,原発20km圏内にほぼ入り,原町区はほぼ20kmから30km圏内,鹿島区はほぼ30km圏外というように分かれた。元々別の自治体だったものが,今回の原発事故による避難等の地域にほぼ重なったことにより,様々な面で地域の温度差や住民間の不公平感を生むという不幸な状況になっている。皆,できることならこの地域に住み続け(または戻り)たい,地域を復興させたいという気持ちは共通だが,原発事故への不安と,二転三転する避難指示が,その気持ちを阻害している。
4 住民の要望は様々だが,大別すれば,1.当面の生活維持,2.原発事故被害に関する損害賠償の見通し,3.今後,地域に戻ることができるか(住み続けることができるか)についての不安,4.(「3」が可能として)住めることができる地域であり続けることが可能か(仕事がなく,残るのは高齢者等だけになってしまうのではないか)ということに分けられるように思う。
原発事故に関する損害賠償については,弁護士の本来職域に入ってくる問題ではあるが,これも,単純な金銭賠償のみでよいのか,個人や事業者が金銭賠償を受けただけでは,元の地域に戻すことはできないという問題がある。また,地震・津波の被災と分けられるかという問題がある。早急な仮払いは当然としても,1.全体的な復興プランの一部として,原発事故の損害賠償を組み込むこと,2.地震・津波被災についても,原発事故被害との差別なく,ある程度生活保障・生業補償が得られるというような仕組み作りが必要なのではないか。その意味では,従来の私法・公法の枠組みを超えた大きなスキームで復興プランを構想していく必要があるように感じる。復興構想会議の五百籏頭議長が,復興構想の議論から原発事故を外したいという意向を示したらしいが,とんでもないことである。
5 それらの前提条件として,どうしても,原発事故の早期収束と放射性物質流出対策(これ以上の流出を防止する,既に放射性物質が降下した地域の除洗など)をとること,そのための具体的な対策の立案と十分な情報発信(正確,迅速,隠さない,分かりやすい)が必要である。
以上